三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡
経緯
寛政八年四月二十一日、南原村の百姓達が大雨の被害によって壊れた橋の修繕を行おうとして、その材料を探しに石塚山に上り石を探したところ、偶然にも石穴(石室)を見つけ、その中にあった鏡十二面を発見した。当時庄屋銀助は藩に差出したところ、藩の審議により、地元へ差し戻され、宇原宮に五面、小倉宮(宇原宮分社)に五面、村方に二面と分配された。いろいろな経過をたどり現在は宇原神社に宝物として保管されている。
銅はいずれも白銅質(銅と錫の合金)の三角縁神獣鏡と呼ばれるもので、鏡の背面には中国の神仙思想に基づく図柄が表現され、その神像、獣形の配置銘文などに小異があり、次のように分類出来る。の七面で、いずれも中国(魏)種鏡式に沿った重厚で精緻な造りで舶載鏡(舶来鏡)と見られる。
三角縁神獣鏡は古墳から出土する数多い舶載鏡のなかで、一つの種類としてもっとも出土量が多く、また、同茫鏡(同じ鋳型で造られた鏡のこと)が多いという特色を備えている。この鏡で重要なことはこれと同茫鏡が福岡県(御陵古墳・原口古墳)、大分県(赤塚古墳)のみならず岡山県(車塚古墳)、京都府(椿井大塚古墳)、奈良県(新山古墳)などと近畿、中国、九州とに及んでいることである。古墳時代(石塚山古墳は年代的に見て四世紀)前期における畿内勢力との関係を求める上にも重要な遺品の一つであり、瀬戸内海と九州の接点に位置する石塚山古墳の被葬者の立場がうかがえる。この鏡の製作された「魏」の時代と言えば「邪馬台国」のことが思い起こされるが「魏志倭人伝」の記事の中に「魏の景初三年(西暦239年)卑弥呼は、魏の都に使いを送り、これに対して魏帝は倭の女王に数々の品物を贈り、その中に銅鏡百面が含まれていた」と言うことが記されている。やがて「その翌年の正始元年使いの者は帯方郡吏とともに帰朝した」わけである。これら百面の鏡は、当然卑弥呼のもとに持ち帰られたはずである。この鏡はいったいどの様な鏡だったのだろうか。この「魏志倭人伝」の記事との関連を考えると、「三角縁神獣鏡」が中国(魏)種鏡式の鏡であると言うことは、すでにそれだけでも大変興味深いことである。