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浮殿神社

| 鎮座地
苅田町富久1丁目19番地の2
 
| 御祭神
  • 天照皇大神(あまてらしますすめおおかみ)
 
| 由緒
 
 
 
 
 
 
 
石塚山古墳  九州最古の前方後円墳 ―
 
苅田町役場に隣接して大神宮と称する小高い丘がある。これが九州最古の前方後円墳といわれる石塚山古墳である。
古式古墳の特徴として前方は狭長、後円は雄大、すなわち前方部は幅約40米、長さ約50米と細長く、後円部は直径約70米という高大なものである。そうしてその後円部の頂に細長い窪みがある。
これは寛政八年に偶然発見された空洞(石室)の跡である。このことについては当時の庄屋銀助が藩主小笠原忠苗公に報告しているがそれによればその空洞は長さ約5.4㍍の竪穴式石室で、深さは約1米、幅は下底で約1㍍、上幅は約60㌢、内部は丹(に)で塗られていて、その中に大型三角縁神獣鏡11面、が副葬されていたと書かれている。
このような構造や副葬品からみると、この古墳は畿内の最も古い古墳と全く類似しており、年代的にはだいたい四世紀中頃を下らぬ時期。すなわち今から約1600年から1700年前の構造と推定される。
一般に古墳に葬られた豪族はその地方の農耕人を支配して、農業から利益を得て勢力を張るのが通例であるが、苅田は海に面しているので、瀬戸内海に対する門戸であり、中国、四国、近畿地方との交易、すなわち海上貿易によって石塚山の豪族は富を得、交易上及び軍事上制海権を握っていた名実ともに強大な豪族であったと言えよう。
ところで、この古墳が築造された四世紀といえば、大和朝廷と朝鮮との関係はすこぶる険悪で、大和朝廷は再三にわたり朝鮮に出兵している。従ってこの時期にかような強大な豪族を軍事上最も重要な北九州の地に野放しにしておくことは、大和朝廷にとっては一大脅威なので、大和朝廷はどんな犠牲を払っても、ここを手中に入れ、その豪族を服従させて、朝鮮計略の基地にしなければならなかったのである。
それで大和朝廷は豪族に対し或は権力を以て威圧し、或は物を与えて手なづけたものであろう。その懐柔策の一として石塚山古墳の豪族に鏡を与えたものと思われる。
いずれにしても石塚山古墳に埋葬された豪族は、大和朝廷と特別に密接な関係を保ちながら、瀬戸内海西方の制海権を掌握し、畿内文化と政治的勢力の優越性を半島進出の基北九州に誇ったのみならず、半島進出のため大いに活躍した大きな勢力であったと考えられる。
 
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