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 古代
 
宇原神社のある苅田の地形は古代と今とではかなり違いがあり、海岸線が古代はかなり奥深くまであった。「新津」、「片島」などの海辺に関する地名が今も奥地に残っている。古代はすぐ山が海近くまでせまり、平地はわずかであった。東は長大な海岸線。遠浅である。沖には細く長い島があった。満ち潮の時は島であるが、干潮になるとそこまで一本の道ができる。地元の人はそれを「ミテ」と呼んでいる。由緒書によれば、ここから二人の神が上がられた。父神は「彦火々出見尊」。母神は「豊玉姫尊」。そして生まれた御子神は「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊」。そしてこの島を「神ノ島」と名付けたとあり、地元の誰もが知る伝説である。
気候は日本海式と瀬戸内海式の中間気候と言われている。そのため農業用水としてため池が山裾に沿って多く作られた。大きな川もなく雨水への関心と希求が当然に強くあったと思われる。このことは現在でも同じである。
山は西から迫っている。「平尾台」という西日本を代表するカルスト台地の東端である。その露頭が山のあちこちに顔を出している。標高は700メートル程度だがまさに岩山という表現にふさわしい山々である。さらに奇岩に富む洞窟が多く口を開けている。その数平尾台全体で約200と言われ、面積当たりの洞窟の数は日本一であるという。その一つに「青龍窟」という天然記念物の巨大で複雑な洞窟がある。その洞口のホールの正面に「豊玉姫尊」の化身であると言い伝わる巨大な丸い岩が鎮座している。この洞窟は苅田町で一番大きな川の源流となっている。またその洞窟の少し上には県下唯一の湿原「広谷湿原」があり、通常は海辺にある葦の群生が見られる。その平尾台山系の端に「高城山」という419メートルの目立つ山がある。その山頂には巨石が屹立している。幕末の郷士出身の国学者「狭間畏三」氏は、その著『神代帝都考』でこの地が天孫降臨の地であると述べている。
苅田町には国指定重要文化財の「石塚山古墳」がある。現在の苅田町役場横の「石塚山古墳」は三世紀後半~四世紀初頭(約1700年前)のものとされ、九州で最大最古の前方後円墳である。「宇原神社」は元々この古墳の西側、後円部の付近にあったとされている。その当時社殿はなく、神域であった。その地は「浮(おき)殿(どの)」と呼ばれた。
 
 中世
 
寛治四年(西暦1090年)六月、御神託により宮を浮殿の地から酉戌の方位(西北西)の現在地(馬場宮山)に移すことになった。
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苅田のある豊前国の中世は戦乱の日々であり、大友対大内を始め、豊前での幾多の戦乱はこの地の民衆にとって非常な災難であった。そこで「宇原神社」はこの神域を守るために一時的に「八幡社」と称したとされる。(現在「宇原八幡宮」と記された鳥居が境内に残る)。八幡社は武家の守り神と言われ、そう称えることで災いを免れ得るかと。しかしおそらく兵の駐屯地としての利用を阻むべく無残にも焼き払われた。キリシタン大名の大友氏による可能性が大いに考えられる。
室町時代は一言で言えば乱世であった。幕府はあり将軍もいたがあまり権威は無かった。そのため人々は団結して自分たちの村を守るという自治の機運が生まれた。またこの時代は肥料の改良などによって農作物の収穫が増えた。さらに、乱世のため都の文化人が地方に下り、必然的に都の文化が地方に広まっていった。山口の大内氏等地方もそれを歓迎する動きもあった。民衆の自治の気持ちの高まり、豊かになった地方経済、その他様々な要因が重なり各地で祭りが始まっている。苅田の「宇原神社」もその一つであった。「宇原神社神幸祭」の幕開けは、嘉吉二年(西暦1442年)六月二十九日、「国家安全・五穀豊穣・萬物平安祈願」のため、三つの神輿を昔の宮処、すなわち浮殿の地に行幸し奉った。
 
 
 
大内氏・大友氏らの戦乱が相次いだ。そして豊臣秀吉の家臣黒田孝高が九州平定後の天正十五年(西暦1587年)七月三日、馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の六郡(ただし宇佐郡半都は大友吉統領)、およそ十二万石(太閤検地後十七万石以上)を与えられ、中津城の築城を開始した。黒田官兵衛が苅田を治めることになった。豊臣秀吉の天下統一の過程でひと時の平安が訪れた。この頃、祭りの形式が大きく様変わりした。村々より「鉾山」が出された。これが現在「苅田山笠」と呼ばれるものの原点である。「幟山」と人形を付けた「飾り山」それに「灯山」という3回変わる鉾山の形式がこの時には行われていた。祭りは幾度か危機に見舞われた。享保十七年(西暦1732年)の「享保の大飢饉」は苛烈を極め、農村人口は一挙に激減したという。
寛政八年(西暦1796年)に七面の「三角縁神獣鏡」と銅鏃一本、素環頭大刀残欠一括が石塚山古墳より発掘された。(その後、いろいろな経過をたどり現在は宇原神社に宝物として保管されている。)
幕末、長州藩との戦い(慶応二年、西暦1866年、第二次長州征伐)では、苅田の北方、「狸山」が最前線になった。八月十一日には長州軍の騎兵隊・報国隊が狸山の番所を襲い、さらに「苅田村」・「浜町村」まで攻め込み民家を焼いた。苅田が戦場になった。この時の戦乱は苅田の祭りにとってまさに危機一発であったと言わざるを得ない。
明治になって全国に電線が張られた。祭りの山車とはもともと空高くおられる神を降ろす「依代」のもので、少しでも高く作っていたが、電線が張られたことにより運行が出来なくなった。そこで、高い「鉾山」を途中で折ること「蝶番」によって、解決した。運行時には電線に当たらない程度に低く、浮殿に集まった時は折った部分を立てて従来の高さにもどる現在の形が始まった。
 
 近代
 
昭和二十八年三月三十一日、七面の鏡とともに銅鏃一本、素環頭大刀残欠一括が、「石塚山古墳出土品」として国指定の重要文化財に指定された。
苅田は新開(開拓)事業で遠浅の海は埋め立てられ、企業進出と工業都市化の進展を遂げ、自然・文化・歴史や産業が調和する町となった。
宇原神社はこの苅田町の守護神として、氏子の方々はもちろん多くの人々の御参拝を頂き、年と共に発展し続けております。
 
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